第9回【ローマ編 最終回】 ローマのロジスティクスに関する話あれこれ<番外編>

『ガリア戦記』から見えるローマ軍の移動や物資調達、輸送の実態

ローマシリーズではここまで、ローマの繁栄をもたらした独特の軍事・政治システムや、それを支えたロジスティクス・ネットワークなどを、マクロな視点から眺めてきました。最終回は、これまで紹介できなかった、ローマの具体的なロジスティクスの実態を紹介します。

目次

司令官が戦いながら書いた遠征リポート『ガリア戦記』

 ユリウス・カエサルが紀元前1世紀半ば、今のフランス・スイス・ベルギーにあたるガリアを征服したとき、そこはローマ人にとって未開の土地でした。

 古くからガリア人が住んでいた北イタリア・ポー川流域や南フランスは、ポエニ戦争後に平定され、ローマの属州となっていましたが、その北に広がる広大な地域では、ガリア人の伝統的な部族制と自然信仰が維持されていました。

 カエサルは紀元前59年に執政官を務めた翌年、ガリア属州総督に就任。互いに対立するガリア人の内部紛争に軍事介入しながら、ガリア全土の平定を進めていきます。

 紀元前58年から8年にわたるガリア戦役の模様は、カエサル自身が戦いながら書いた本国へのリポートによって、かなり正確に知ることができます。

 彼は戦役終了後、このリポートを『ガリア戦記』という本として出版して、一般市民も読めるようにしました。

 カエサルは執政官のときにも、元老院での演説や議論の内容を広場に張り出し、誰でも読めるようにしています。

 それまでローマの政治はとかく元老院の閉じた世界で決められ、国家の中枢で何が起きているのか、一般人はなかなか知ることができなかったのですが、彼は今で言う情報公開によって、政治を民衆に開かれたものにしたのです。

 それは民衆に自分の姿勢と活動をアピールし、支持層を広げるためでもありました。

 ガリア遠征の模様を元老院にリポートするだけでなく、本として出版したのも、こうした情報公開、支持者拡大作戦の一環だったと言えます。

ロジスティクスに関する貴重な資料

 この本には、戦いがどのように行われたかだけでなく、ガリア戦役がゲルマン人のガリア侵入を発端として始まったこと、ゲルマン人に土地を追われたガリア人の部族が別の部族の土地へ侵入して、ガリアに内部紛争が起きたこと、被害者であるガリアの部族が、ローマのガリア属州総督であるカエサルのところに助けを求めてきたことなどが簡潔に語られていて、現代人の私たちも、戦役の全体像を正確にイメージできます。

 さらに、カエサルはゲルマン人やガリア人がどのような風俗習慣や価値観を持っているかについても、かなり詳細に分析しています。

 『ガリア戦記』は、司令官が現地で蛮族と戦いながら、彼らを考察した、人類学・民俗学的なリポートでもあるのです。

 また、ローマ軍が行軍する際の編成や、どんなふうに食料を調達したか、どんな場所にどのように宿営施設を張ったかといったことも書かれていて、ロジスティクスの実際についても知ることができます。

 たとえば、敵が潜んでいるかもしれない地域では、主力部隊の中に兵站の輸送部隊をはさんで行軍したり、急いで目的地に駆けつけなければならない場合は、必要な兵力を輸送部隊の警護に残して、身軽な軍団だけで行軍したりといったことがわかるのです。

臨機応変な食料の調達

 『ガリア戦記』には食料、特にローマ人の主食である小麦を、ローマ軍が現地のガリア人と交渉して調達する話が何度となく出てきます。

 兵站を重視するローマ軍だから、食料は本国や基地となる属州から持っていくというわけではなかったようです。


 食料を現地で調達した理由のひとつは、戦役の期間や必要な食料の量が読めなかったことです。

 ガリア遠征はガリア人の部族間の争いを鎮静化することが目的でしたが、ローマ軍の介入がガリア人の反発を招き、ローマに対する反乱が広がっていきました。

 戦役がいつ終わるか読みづらい状況では、どのくらいの食料を持っていくべきか予測するのも難しいため、臨機応変に現地で調達するしかなかったということかもしれません。

 カエサルは8年にわたる戦役の間、戦闘を行わない冬にも、必要に応じて軍団をガリアの各地に駐屯させ、必要な食料を調達させています。

 ひとつの部族や地域から調達しようとすると、ガリア人の食料が足りなくなるので、軍団を分散させたり、一部はナルボンヌ(今のスペインに近いフランス南部の属州ガリア)から調達させたりしたという記述もあります。

 ナルボンヌからの調達も、現地ガリア人の食料需要を考慮しなければならないため、限定的なものにならざるをえなかったということでしょうか。

 カエサルとしては、ガリア人にローマのファンを増やすことで、ガリア全土をローマ化したいわけですから、親ローマ派のガリア人には相当気を使ったようです。

ローマとカエサルの微妙な関係 


 臨機応変な食料の確保には、カエサルとローマ政界との関係も影響していたかもしれません。

 そもそもガリア戦役は、北イタリアと南フランスの属州ガリア総督であるカエサルが、自分の判断で始めた戦争でした。

 ガリア全土を新たな属州とすることで、ローマに莫大な富をもたらし、ローマ人の支持を獲得するためです。

 当時のローマはカエサルに敵対的な元老院派が権力を握っていて、彼らはそもそもカエサルに6万から8万人という大規模な軍隊を持たせることに反対だったと言います。

 元老院派の英雄ポンペイウスと、ローマ最大の資産家クラッススを巻き込んだいわゆる「三頭政治」体制によって、カエサルはガリア戦役に最低限必要な軍団を編成することができたのですが、8万人のうち2万人は自費で集めています。

 こうした背景を考えると、食料を含め、兵站の確保も国に頼っているわけにはいかなかったのかもしれません。

攻城兵器の現地製作と工具の運搬

 ガリア戦役中、ローマ軍は必要に応じて、城壁で囲まれた砦や都市を攻略するための攻城兵器や攻城設備を作ったり、レヌス川(今のライン川)のような大河を渡るときには橋をかけたりしています。

 攻城兵器を作るのは基本的に兵士の担当で、工具も彼らが装備品として所持していました。

 元々、こうした工具は輸送部隊が運んでいたのですが、ポエニ戦争後に行われたマリウスの軍制改革で、兵士が自分たちで運ぶようになったようです。

 その方が戦地で臨機応変に攻城兵器や攻城櫓を作ったり、陣地を構築したりできるからです。

 彼らは武器や数日分の食料、食器、土を掘る鍬や木を切る斧・ノコギリなどを背負って行軍し、必要に応じて戦ったり、陣地や攻城兵器を造ったりしていました。その重さは40キロくらいだったと言います。

 攻城兵器・設備で代表的なのは、都市の城門を破壊する巨大な槌や、敵の城壁を攻撃するために組み上げた櫓です。櫓の最上階を城壁と同じ高さにするために、土を盛り上げてスロープを築き、櫓の下には車輪を付けて、スロープを登れるようにしました。

 櫓を城壁に付ければ、兵士たちは簡単に火矢を放って攻撃したり、城壁の上に乗って戦ったり、城砦の中に入って城門を開けたりすることができます。

 ローマ兵たちはこうした大型攻城兵器・設備を、材料となる石や木材などは現地で調達し、現地ですばやく組み立てることができました。

橋の建設と船の調達・修理

 一方、橋をかけるのは専門の工兵でした。

 川の流れを見極めて、築いた橋が流されないように橋脚を川底に打ち込み、その少し上流に防御柵を立てて、橋脚を守るといった、特殊な技術と作業が必要だからです。

 カエサルは『ガリア戦記』の中で、橋の架け方を詳しく記述しています。

 ガリア戦役でカエサル軍は、ガリアに侵入して略奪したり、反ローマのガリア部族を支援したりするゲルマン人を討伐するため、二度にわたってライン川に橋をかけ、ゲルマニアに侵攻しています。

 ゲルマン人はローマ軍があまりにもすばやく橋をかけ、全軍を渡らせるのに驚き、戦意を挫かれたと言います。

 カエサル軍はガリア戦役中に二度、今のドーバー海峡を船で渡り、ブリタニア(ブリテン島)の地勢調査や小規模な戦闘を行なっていますが、これは北部の敵対的なガリア人が、ローマ軍に追われるとブリタニアに逃げたり、そこに住むガリア人からサポートを受けたりしていたからです。

 このとき、2個軍団を運ぶのにガリアの沿岸地域で輸送船80隻を調達しています。他に前の年に建造させておいた軍船もあったようですが、たいした数ではなかったらしく、こちらは偵察隊や騎兵部隊などを運ぶために使っています。

 ブリタニアでは、上陸後に天候が荒れ、沿岸に停泊していた船の多くが岩場で座礁して壊れてしまいましたが、兵士たちはこれを修復し、なんとか無事帰還することができました。

 兵士たちが船の建造までできたかどうかはわかりませんが、少なくとも修理する技術は持ち合わせていたようです。

平時から街道の建設を担った兵士

 戦いが行われない冬の間も、ローマ軍はガリア北部に冬営地を建設して冬を越していますが、軍団が駐屯するこの施設は、土を固めて石で補強した土塁の上に、木の壁や見張り用の櫓を設置し、人や馬、四方に車両が通れる門などを設けた、簡易都市でした。

 この冬営地の建設も兵士たちの仕事でした。

 また、『ガリア戦記』によると、軍団は軍事行動中も必要に応じて野戦基地を築いていますが、深い堀で敵の襲撃を防ぎながら応戦したという記述がありますから、しっかりした防衛機能を持つ陣地をすばやく建設していたようです。

 ローマ兵は戦闘で強いだけでなく、建設・土木工事でも優秀であることを求められたのです。

 そもそも、ローマ兵は戦時でない平時でも、街道や橋などの建設を担っていたと言います。彼らは社会インフラ建設の最前線に立つローマ市民でもありました。

 戦争でも戦闘を担う兵士が工作や工事も行ったのです。

 ポンペイウスはヒスパニア(今のスペイン)の属州拡大に向かったとき、兵站や軍の移動をしやすくするため、今の南仏に道路を建設しながらゆっくり進んだと言います。このケースでは戦争を担う兵士が社会インフラである道路の建設を同時に行ったと考えられます。

 カルタゴの兵士の主力が戦闘専門の傭兵だったのに対し、ローマ軍の兵士はローマ社会の根幹を担う市民であり、戦闘だけでなく、戦いに必要な道路を敷設したり、攻城戦に使う大型兵器を開発・製造したりもするエンジニアであり、工作者であり、そこで使われる木材などの調達、さらに必要なら小麦などの食料の調達まで行うマルチタスク人材だったわけです。

 戦地ですばやく攻城兵器や橋などの構造物、冬営基地を作ることができたのも、ローマ軍に技術や設計の雛形が蓄積されていたからだと考えられます。

戦利品や捕虜/奴隷を運んだ商人

 『ガリア戦記』の記述からうかがわれることで興味深いのは、獲得した戦利品を預かってローマに輸送する、商人の一隊が帯同していたらしいことです。

 平定した国や民族をローマ連合に迎え入れながら拡大してきたローマは、みだりに現地で略奪をしませんでしたが、敵側が一度降伏したのに、約束を破って反乱を起こした場合には、懲罰、見せしめの意味で、攻め落とした都市で略奪を行うことがありました。

 ガリア戦役でのカエサル軍も、現地に入った時点で投降してきたガリアの部族は、人質をとった上で友好関係を結びましたが、その約束を破って反旗を翻したときには、戦闘後に略奪を行なっています。

 たとえばガリア戦役の2年目、ガリア北部で蜂起した部族が堅固な城壁に囲まれた都市に籠城したとき、ローマ軍が攻城櫓を築いて攻め込もうとすると、降伏したと見せかけて油断させ、隙をついて反撃してきたことがありました。

 これを撃退して勝利したカエサル軍は、53000人の全住民を競売にかけ、奴隷として売り払っています。競売にかけたということは、買う商人がいたということです。

古代の奴隷ビジネス

 古代は奴隷も商品でしたから、それ自体は不思議ではないのですが、ガリアという戦地で5万人以上の奴隷を競り落とした商人たちは、どうやって管理し、持ち帰ったのか、ちょっと不思議です。

 他にも、やはり降伏の約束を破って反乱を起こしたガリアの部族の町で略奪を行ない、ガリア人を全兵士に1人ずつ奴隷として与えたという記述もあります。

 この場合、ローマ兵たちは敵地で戦い続けるわけですから、どの奴隷がどのローマ兵の所有物なのか、しっかり記録して管理する仕事は誰がどう担ったのか、かなり不思議です。

 そういうことは古代ローマでは常識だったからか、カエサルは『ガリア戦記』で一切説明していませんが、おそらくこの時代の戦役には、奴隷を買い取ったり、兵士が個人資産として獲得した奴隷を管理したりする商人が同行していたのでしょう。

 万単位の奴隷を買い取って運んだり、売ったりするわけですから、商人もかなりの数だったでしょうし、ガリア人の土地から輸送するには、ガリア人の襲撃を撃退するために、それなりの武装をしている必要があったでしょう。

 もしかしたら、古代らしく傭兵を雇っていたのかもしれません。

 カエサルもガリアで戦うために、ガリア人の騎兵部隊だけでなく、ゲルマン人の騎兵部隊も傭兵として雇っています。彼らは相手が反ローマのガリア部族でも勇敢に戦い、ローマの勝利に貢献しています。

 民族的に敵か味方かに関わらず、代金を払えば信頼できる兵力になってくれる傭兵は、古代のビジネスマンにとっても、敵地で獲得した資産を守るために、頼れる存在だった可能性があるわけです。

ガリアで活動する商人たちのリスク

 一方、『ガリア戦記』には、ローマ軍と行動を共にしていた商人たちが、ローマ軍の陣営でゲルマン人に襲撃されたという記述もあります。ガリア戦役の6年目、紀元前53年のことです。

 このときカエサルはライン川に近いガリア北部で、敵対的なガリア部族の討伐作戦を展開していました。

 食料の備蓄が不足しだしたので、陣営を守っていた軍団が付近へ穀物の調達に出かけた隙に、ゲルマン人の騎兵が兵站の物資を狙って襲撃してきたのです。

 陣営は防御壁で囲まれ、出入り用の門もある本格的なもので、守備隊として残っていたローマ兵が応戦し、なんとか門を守ったものの、「防壁の下でテントを張っていた商人たちは逃げ場もなかった」と『ガリア戦記』には書かれています。

 つまり、商人たちは陣営の外でテントを張っていたので、ゲルマン人に殺されたか、捕らえられたということなのでしょう。

 翌年には、ケナブムというガリア人の都市(今のパリの南115キロにあるオルレアン)が、反ローマのガリア部族に襲撃され、商売のためにいたローマ市民が殺されて、財産が奪われるという事態が起きています。

 ケナブムは交易都市で、ガリアの多くの物資が集まっていたので、商人たちはビジネスのため、ローマ軍の騎士は食料調達のために滞在していたのでしょう。

 特にローマ軍が守備していたわけではなかったので、彼らは皆ガリア人の襲撃で殺されたということのようです。つまり、そこにいたローマ人の商人は、ローマ軍と行動を共にしていたわけではなく、独自にガリア人と取引をしていたわけです。

古くから経済交流を担っていたローマの商人

 古くからローマとガリアには交易が行われていました。

 ローマからの主な輸出品はワインや陶器などで、ガリアからは鉄や毛皮、奴隷などが輸入されていました。奴隷の取引は、ガリア戦役の前からあったわけです。

 ちなみにガリア人はローマ人より大酒飲みで、ワインを大量に飲んで酔っ払う習慣があったと言います。

 『ガリア戦記』には、ゲルマン人もローマの商人を領土に迎えて戦利品を売っていると書かれていて、ローマと交易していたことがうかがわれます。ただ、彼らはガリア人と違って、外来品を買おうとせず、ワインを飲むことは禁止しているとカエサルは記しています。

 こうしたことから、ローマの商人はガリア戦役の前からガリア人やゲルマン人の土地に出かけてビジネスをしていたことがわかります。

 『ガリア戦記』にはガリア人やゲルマン人の風習や性格、制度などが詳しく書かれていて、カエサルの情報収集力に驚かされるのですが、彼の情報源は、親ローマ派のガリア人だけでなく、ローマ人商人たちの存在も大きかったのではないかと思われます。

 たとえばブリタニアはローマ軍にとって未知の土地だったので、カエサルはドーバー海峡を渡る前にローマの商人たちから情報を集めようとしています。ただ、彼らもブリタニアとの交易は行なっていなかったため、情報は得られなかったと彼は書いています。

 つまり商人たちが知らないなら、他に知っている者は誰もいなかったということです。

 こうした記述から、ローマ人にとって商人たちは、ビジネスチャンスを求めてローマ軍よりも先に未開の土地に出かけ、軍事・政治的な活動にあたって貴重な情報をもたらしてくれる存在だったことがわかります。

ガリア戦役は政治・経済複合プロジェクトだった?

 一方、ガリア戦役中には、カエサルの呼びかけに応じてガリアに乗り込んだローマのビジネスマンが多数いたという説もあります。

 その説によると、カエサルは商人に、ガリアの新たな領土におけるビジネスの利権を与える代わりに、巨額の資金を彼らから引き出したと言います。

 つまりカエサルは、ガリア征服をローマの新領土獲得プロジェクトと考えており、そこから生まれる新たな領土でのビジネスチャンスを利権として商人に提供したということであり、そこに大きなチャンスを見た果敢な商人たちが、多数ガリアに乗り込んでいた可能性があるわけです。

 この説を裏付けるように、カエサルはそれまでの人生で巨額の借金を抱えていたのに、ガリア戦役開始後は急に金回りが良くなり、巨額の私費を投じて、ローマに巨大施設を寄付したり、ガリア戦役向けに新しい私設軍団を組織したりしています。

 そこから彼は、ガリア戦役にビジネスマンを巻き込んで巨額の投資マネーを手にし、領土拡大プロジェクトと、新しい国家建設のために注ぎ込んでいったと推測できるのです。

 カエサルの狙いは、それまでよりユニバーサルで公平・公正な、新しいローマの創出という政治改革にあったのですが、それを実現するために、ガリア戦役を新たなビジネス創出プロジェクトとして商人たちに提案し、ビジネス層の経済的モチベーションを活用することで巨額の投資を引き出したというわけです。

 だとしたら、カエサルは天才政治家・司令官であったと同時に、天才的なビジネスセンスも備えていたことになります。

 『ガリア戦記』に何度も登場する商人たちには、古くからガリア人・ゲルマン人と交易していた商人もいれば、古代の戦争ではありがちな戦利品や捕虜/奴隷を買い取るためにカエサル軍と行動を共にしていた商人もいたのでしょうが、その中にカエサルの呼びかけに応じて、新しいローマを創り出すプロジェクトに参加していた商人たちがいたとしても不思議はないかもしれません。

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この記事を書いた人

シーオス株式会社代表取締役社長。
1969年千葉県我孫子市生まれ。東京薬科大学薬学部卒業後薬剤師免許取得。1992年アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)入社、在籍時に医療流通の複雑さと将来性に気づき、2000年にシーオス創業。医療材料流通を皮切りに通信、小売、メーカーをはじめとする多業種のロジスティクスをデジタル化。日本ロジスティクス大賞など受賞歴多数。2005-2007年東京薬科大学理事、財務委員長。2008年-2010年東京薬科大学理事、財務委員長、IT 委員長を歴任。2016年12月「UXの時代」を英治出版より出版、Amazon、楽天で分野別ベストセラー1位となる。
2010年に立ち上げたトライアスロンのBtoC事業を2017年に分社化、セロトーレ株式会社(Triathlon LUMINA) としてオーガニックな成長に導き、BtoB事業、BtoC事業双方の事業化を実現し現在に至る。
現:日本ロジスティクスシステム協会(JILS) 先端ロジスティクス研究センター副委員長。

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