進化を止めるとき、国家・文明は衰退する
無敵だった巨大帝国はなぜ衰退し、どのように滅亡したのか? 【後編】の今回は、コンスタンティヌスの改革以後も続いた帝国の混迷と、東西ローマ帝国それぞれの滅亡、その後のヨーロッパ・中東世界の変化をたどりながら、ローマ的システムの本質と、帝国の滅亡から学べることについて考えます。
キリスト教団を変質させたコンスタンティヌスの改革
コンスタンティヌスが先代皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧から、一転してキリスト教公認に踏み切ったのは、彼の母がキリスト教徒で、彼自身も密かにキリストを信仰していたからだと考える人もいますが、実際にはキリスト教を統治機構に取り込むことで、帝国の統治をやりやすくする狙いがあったようです。
コンスタンティヌスは単にキリスト教を公認しただけでなく、教会や聖職者に免税特権を与えたり、次々大規模な教会を建設したり、積極的にキリスト教を支援しました。
コンスタンティヌスは、キリスト教徒が急速に増え続けるので、彼らを帝国に取り込もうとしたのだとよく言われます。
しかし、この優遇策はキリスト教徒でなかった人たちを惹きつけ、多くのローマ人が出世や権力・蓄財目当てでキリスト教に入信するようになりました。つまり、キリスト教徒を帝国に取り込むというより、キリスト教本来の信仰を持たないローマ人を教会に吸い寄せることで、キリスト教をある意味変質させてしまったわけです。
絶対君主化するローマ皇帝
もしかしたらコンスタンティヌスは、唯一絶対的な神がすべてを支配しているという一神教の世界観と、皇帝を唯一絶対の権力者とする帝政の世界観に親和性があることに着目し、キリスト教団と帝国を一体化することで、皇帝の権力を強化できると考えたのかもしれません。
ローマ皇帝がコントロールするキリスト教が帝国に広まり、すべてのローマ人がキリスト教徒になれば、皇帝は神に近い存在になり、力で支配しなくても、全国民が進んで皇帝に服従するようになります。
ローマの帝政は、パクス・ロマーナの時代まで、皇帝が議会や法制度を尊重しながら統治する、元首政に近いものだったのですが、ディオクレティアヌス帝以後は、皇帝が権威で支配する東方・オリエント的な絶対君主政へと変化していきました。
強権的に改革を断行したディオクレティアヌスに対して、コンスタンティヌスはキリスト教を利用することで、国民全員が進んで皇帝を崇拝し、その命令に服従する体制をめざしたと見ることができるかもしれません。
彼自身はキリスト教の国教化や他宗教の禁止までは踏み込みませんでしたが、キリスト教の圧倒的優位が確立されると、ローマ帝国はキリスト教を国教化し、ローマ古来の多神教も含めて他の宗教を禁止してしまいます。
ゲルマン人を吸い寄せてしまったローマ
ディオクレティアヌスもコンスタンティヌスも、知性や行動力、カリスマ性、問題解決の独創性など、能力的にはかなり優れた皇帝でしたが、3世紀終盤から4世紀にかけて行われた彼らの改革も、時代の流れを変えることはできませんでした。
コンスタンティヌスの死後、オリエント化した宮廷では宦官が実権を握り、行政は腐敗して治安が悪化。ゲルマン人の侵入はますます多発するようになります。軍には兵士のなり手が不足し、ゲルマン人の傭兵が増えていきました。個人で雇われるゲルマン人もいれば、部族がまとまって傭兵部隊になるケースもあったと言います。
もっとも、古代は傭兵が当たり前で、カエサルもガリア戦役でゲルマン騎兵部隊を雇っていますし、アウグストゥスの時代にも、ローマに好意的なゲルマンの部族を受け入れる同化策を行っています。
ローマ領内には、ゲルマン人の兵士が退役後に、ローマ側の女性と結婚して定住したりして、辺境地域にゲルマン人の人口が増えていきました。
元々ガリアの国境近くでは、古くからゲルマン人と交易を行う市が開かれていましたし、そもそも異民族に対して開放的・融和的なのは、王政時代から共和政を通じてローマのカルチャーでした。
この包容力がローマの活力源でしたから、ゲルマン人との交流が進むのは自然な流れだったのかもしれません。
こうしたゲルマン人との交流が行われていた一方で、敵対的なゲルマン人の侵入や略奪もあったわけです。
ローマ側が強者・勝者で、蛮族との関係をコントロールできているうちはよかったのですが、ローマが弱体化し、侵入・略奪する蛮族の勢いが強くなっていくにつれて、ゲルマン人との関係は危険なものになっていきました。
西ローマ帝国滅亡
その危険が限界を超えたのが、5世紀初めに元ローマ兵のゲルマン人アラリックが、西ゴート族などゲルマン人の大集団を率いてドナウ川の南に侵入したときでした。次々と都市を襲い、素早く略奪していく彼らに手を焼いたローマ側は、土地を与えて懐柔を試みます。
アラリックはその申し出を受けてしばらくは定住しますが、やがてイタリア半島へ南下し、各都市で略奪を再開。首都ローマでは膨大な金銀財宝を強奪します。
こうなると、ローマの安全保障体制は崩壊したと言えるでしょう。
その後もライン川・ドナウ川を越えて侵入してくる蛮族は後を絶たず、ガリアやブリタニア、ヒスパニア、イタリアなど、西ローマ帝国の主要地域が彼らに占領されてしまいます。
この間、西帝国の皇帝は部下に惨殺されて、その部下が皇帝を名乗るといったことが繰り返されています。
結局476年にゲルマン人の傭兵隊長が皇帝を廃位させ、これがローマ帝国滅亡の年とされています。ただ、正確に言うと、これで滅亡したのは西ローマ帝国で、東ローマ帝国はその後も存続しています。
脱ローマ化して生き延びた東ローマ帝国
東ローマ帝国がゲルマン人の大移動で滅びなかったひとつの理由は、帝国が東西で分割統治されるようになって以降、東が帝国の中心になったことです。
特にコンスタンティヌスが新しい首都コンスタンティノープルを建設してからは、それが顕著になりました。
国家としてはオリエント的な専制君主が支配する中央集権型へと変化していき、皇帝は式典でペルシャ王のような王冠をかぶるようになります。
皇帝は大臣・官僚ですら直接話すことができない存在になり、宮廷の宦官たちが間を取り持つようになりました。
かつては連合国家や経済の発展を可能にする、合理的・開放的な統治システムで地中海世界の覇者になったローマでしたが、そのシステムが機能しなくなったことで、伝統的権威や宗教による支配という、古いシステムへシフトせざるをえなくなったのです。
しかし、この東ローマ帝国も7世紀あたりからイスラム勢力に領土を削られていき、最終的には首都コンスタンティノープルだけになって、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされています。
中世ヨーロッパへと変化していった西ローマ帝国
一方西側では、西ローマ帝国の領土を占領したゲルマン人が、部族ごとに占領した地域を支配するようになっていきましたが、形式的にはローマ帝国の枠組みの中で統治を行うというかたちをとったようです。
蛮族だった彼らには、地域や住民を統治するノウハウがないので、ローマ人の官僚やキリスト教の指導者層に色々教わりながら、徐々に統治者へと育っていったのでしょう。
476年に西ローマ帝国が滅亡したというのも解釈の問題で、元々西ローマ帝国は滅んだのではなく、侵入してきたゲルマン人を取り込みながら、時間をかけて変化していったのだとする説もあるくらいです。
その過程でゲルマン人の王や貴族たちはキリスト教に改宗しています。
これによって西のキリスト教会であるカトリック教会は、神の権威によって、新しい支配者であるゲルマン人をある意味支配するようになりました。
政治的・軍事的な力はゲルマン人の方が上ですが、彼らが唯一絶対の神を信仰するようになった以上、神と人の間を取り持つ教会の方が、倫理的な正統性では彼らより上だからです。
こうして旧西ローマ帝国は、世俗の支配者であるゲルマン人とその下で生きる民衆を、ローマ・カトリック教会が信仰の力で支配する中世ヨーロッパへと、変化していくことになります。
ローマ帝国の滅亡から学べること
ローマ帝国は巨大で複雑なので、どこでどう対処していれば、衰退や滅亡を防ぐことができたといったことを言うのは難しいのですが、今の私たちにとって参考になることはいくつかあるような気がします。
まずポイントになるのは、ディオクレティアヌスの改革が、当時のローマ帝国の課題を解決する効果があったとはいえ、その結果、ローマ的な法と経済発展による統治システムから、オリエント的な専制君主による支配への後退をもたらしたことです。
コンスタンティヌスの改革は、新しいキリスト教という宗教を皇帝による支配と一体化させたという意味で、それまでにない新しいシステムの創造と見ることもできますが、その結果、ギリシャとローマが地中海地域にもたらした、学術や技術の革新も、経済合理性と法による統治も放棄され、長く沈滞の時代が続くことになりました。
グローバル・ロジスティクス網の崩壊
こうした後退が進む中で、ローマの発展を支えてきたローマ街道など、社会・経済インフラ・ネットワークも分断され、次第に機能しなくなっていきました。
ローマ時代の経済を知る考古学的指標のひとつに、小麦やワイン、オリーブオイルなどを運ぶのに使われたアンフォラという素焼きの甕(かめ)があるのですが、帝国の各地ではこのアンフォラが大量に発掘されています。首都ローマでは、アンフォラの廃棄場が巨大な丘として今も残っていて、巨大都市で消費された食料の膨大さを物語っています。
この廃棄されたアンフォラの量が、4世紀に西ローマ帝国の多くの地域で急に減少していることから、この時期に帝国の経済が急激に崩壊したことがうかがわれます。
また、アンフォラには製造された土地の特色があり、たとえば帝国の全盛期には、イタリア半島以外の各地から多くの食料が運ばれていたのに、4世紀以降は半島産のアンフォラがほとんどになることから、グローバルな物流ネットワークが崩壊したことがわかると言います。
東ローマ帝国からイスラム帝国へ
西ローマ帝国で社会・経済インフラやシステムが機能しなくなった後、東ローマ帝国の領土だった中東から7世紀に生まれ、急速に拡大したのがイスラム帝国でした。
イスラムは宗教と政治・軍事・社会・経済機構を一体化させたシステムです。
元々砂漠の交易を仕切っていた部族社会から生まれたこのシステムは、ギリシャ文化の活用や物流ネットワークの拡大によって、中東から北アフリカ、スペインまで急速に広がり、グローバル帝国を構築しました。
今のイスラムから想像するのは難しいかもしれませんが、様々な民族が交流する砂漠の都市をつなぎながら成長した初期のイスラムは、ユダヤ教やキリスト教、古来の多神教も許容するなど、ローマが失った開放性・多様性・公共性を備えたグローバルなシステムでした。
しかし、このイスラムも派閥や国家間の抗争によって分裂し、地中海・中東地域では、開放的な活力を失っていきました。
中東から中央アジアやインド・パキスタン、東南アジアへ伝わったイスラムは、各地域に適応しながら多様化していきましたが、国家や民族単位のシステムとして機能したため、ローマ的な統一的グローバル・ネットワークは構築されませんでした。
開放性・公共性の重要性
こうしたローマの歴史と、その影響を受けた世界の変化を見ると、ギリシャの影響を受けたローマ的な革新が止まったとき、ローマの成長・発展が止まり、衰退が始まったことがわかります。
そもそもローマの新しさと活力は、それまでの古代世界になかった軍事・政治・経済における合理性の追求と、平定した国々に公共性のあるシステムを提供することで共に成長・発展していく、開放性・融和性にありました。
その新しさは、ローマ街道など経済や社会の豊かさを実現していく社会インフラ、ロジスティクス・ネットワークの拡大・成熟によって着実に実現されていました。
ロジスティクス・ネットワークによって、ローマはギリシャやその他の古代国家を超える、新しいタイプの繁栄を実現できたと言えるでしょう。
逆に言えば、国が革新性を失い、ロジスティクス・ネットワークが劣化すれば、開放性・公共性も劣化し、衰退の道を辿ることになるということです。
21世紀に生きるローマの教訓
20世紀のグローバリゼーションの時代が終わり、21世紀の世界は、再び国家や民族が閉じる時代へと移行しつつあります。
その一方でグローバル経済はかつてないほど拡大し、開放性や融和性、公共性はますます重要度を増しています。
この相反する流れによって緊張が高まる中で、経済・社会を支えるロジスティクス・ネットワークは、政治的分断や対立抗争を超えて、国家や機構、企業、人をフェアに、科学的・効果的に結ぶことができる唯一の仕組みです。
ローマの成長・繁栄と衰退の歴史は、21世紀を生きる私たちに、今何が大切なのかを教えてくれているのかもしれません。

