巨大化した帝国の繁栄を維持する難しさ
空前の繁栄を誇ったローマ帝国にも、衰退・滅亡の時が訪れます。無敵だった巨大帝国はなぜ衰退し、どのように滅亡したのか?今回の【前編】では、ローマ帝国の変質、激しさを増すゲルマン人の侵入、ローマを内側から変えたキリスト教など、様々な角度から帝国衰退の原因を探ります。
蛮族との力関係逆転
ローマ帝国の滅亡について、多くの人がイメージするのは、ゲルマン民族が大量に侵入してきて帝国を滅ぼしたというものです。
たしかに4世紀末から5世紀にかけて、次々とゲルマン人のさまざまな部族が国境線を越えて侵入しました。ローマ帝国は次第にこれを撃退することができなくなって領土を占領され、これが帝国滅亡の大きな要因になったとされています。
しかし、蛮族の侵入自体は紀元前の共和政時代から何度もありました。たとえば、紀元前4世紀には、当時北イタリアに住んでいたガリア人に攻め込まれ、一度は首都ローマが破壊・略奪されています。
その後ローマは組織的な軍事力でガリア人を圧倒するようになり、彼らの土地を段階的に征服しては属州化していきました。
共和政の末期にはゲルマン人や北方の蛮族がイタリア半島に攻め込んできましたが、これもなんとか撃退しています。
ガリア全土がローマの属州になり、帝国の統治が安定していた1-2世紀にも、今のドイツや北欧・中欧・東欧にあたる広大な地域から、ゲルマンをはじめとする蛮族が侵入してきましたが、これらも問題なく撃退しています。
ところが3世紀以降になると、蛮族は今のライン川やドナウ川の国境を越えて帝国の領土に入り込み、やりたい放題略奪するようになります。
なぜそんな力関係の逆転が起きたのでしょうか?
ゲルマン民族大移動
理由のひとつは、この時期の蛮族の侵入が、過去とは比べものにならないくらい大規模化したことです。
彼らは農耕民族ではなく遊牧民だったので、元々定住せず、広い地域を移動しながら暮らしていたのですが、気候の変動や自分たちより強い民族の侵入などが起きるたびに、押し出されるように農耕民の土地に侵入して食料を強奪してきました。
今の北欧からドイツ、中欧・東欧あたりで暮らしていた蛮族にとって、農耕・牧畜が発達し、食料が比較的安定して確保できるようになったガリアは、ライン川、ドナウ川を渡れば手軽に食料を略奪できる、ありがたい土地でした。
その侵略も、略奪が終われば引き上げる一時的なもので、タイミング的にも部族ごとにバラバラでした。
それが4世紀末から5世紀になると、「ゲルマン民族大移動」として知られているように、色々な部族が大量かつ一斉に侵入し、ローマ領に居座るようになります。
アジアの民族移動
ゲルマン民族大移動の原因としてよく言われるのがフン族の侵入です。
彼らの実態はよくわかっていないようですが、今の東欧よりもっと東から侵入してきた騎馬民族で、ゲルマン人よりも強く凶暴だったと言われています。
この時期にローマ領に侵入し定着したゲルマン人は、自分たちより野蛮な騎馬民族に追われ、家族や家畜たちとローマ領へ逃げてきた勢力でした。
この民族移動の玉突き現象はなぜ起きたのでしょうか?
そのヒントはもっと東、中央アジアから東アジアにあるかもしれません。
東アジア/中国の4-5世紀は、中央アジアの騎馬民族が中国北部へ次々侵入し、騎馬民族と漢民族がさまざまな国を建てては滅亡していた、いわゆる五胡十六国時代にあたります。
中国でも蛮族の侵入は、秦・漢帝国時代の匈奴など、古くから繰り返されていましたが、中国側は万里の長城を築くなどして防いでいました。
しかし、4-5世紀になると、中国を統一できるほど強力な国家が存在しなくなったことで、騎馬民族が侵入しやすくなりました。
騎馬民族側も、この時代にはインドから中央アジアに伝わった仏教と共に、国家の統治システムを学習していましたし、中国北部に侵入して、小国家を建てたり滅んだりを繰り返す中で、中国文化を吸収し、さらに文明化していったと考えられます。
ちなみに6-7世紀に中国全土を統一した隋や唐は、五胡十六国末期にルーツを持つ、騎馬民族と漢民族のシステム・文化が融合して生まれた勢力でした。
西をめざしたアジアの騎馬民族がいた?
この中国で起きた騎馬民族の大移動から推測すると、4-5世紀にかけて、中央アジアから逆方向に、西をめざした騎馬民族がいたとしても不思議ではない気がします。
それがゲルマン民族を駆逐したフン族そのものだったわけではないにしても、中央アジアから今の南ロシア、東欧にかけて、モンゴル系騎馬民族の移動による玉突き衝突が起き、最終的に東欧・中欧へ押し出されたのがフン族だったということも考えられます。
フン族自体は中国へ移動して国を建てた騎馬民族のように、仏教文化を取り入れて文明化していたわけではなく、自分たちの国を建てることもなかったようですが、彼らに押し出されたゲルマン民族は、かつてないほど大量にローマ帝国へ侵入し、そのまま居座って、部族ごとに国を建てていくことになります。
この時代のゲルマン人は、民族移動の量や強度、移住・定住を目指す本気度が、それまでとは桁違いでした。
なぜローマは弱体化したのか?
一方、ローマ側もかつてのように無敵ではありませんでした。それがゲルマン民族の侵入を防げなくなったもうひとつの理由です。
ローマが弱体化した理由としてよく言われるのは、ローマ人が200年のパクス・ロマーナで平和ボケし、贅沢に慣れ、遠い辺境で国を守る気概を失ったということです。
確かに、平和な繁栄を経験したローマ人は、かつてのように継続的に戦いながら領土を拡大していた頃とは別人になっていたとしても不思議はありません。
また、帝政期に入ってグローバル化が進むと、ローマ軍はガリア人など属州出身の兵士が増え、将官・士官など、兵を指揮する軍人たちも国際色豊かになっていきました。
最高司令官でもある皇帝にも、五賢帝のトラヤヌスやハドリアヌスをはじめ、属州出身者が次々即位しています。
グローバル帝国になったわけですから、これ自体は特に問題ありません。
しかし、最高司令官から将官、一般兵まで、首都ローマやイタリア半島を知らない軍人たちが占めるようになると、軍事的な技術・ノウハウはともかく、ローマ的な社会・経済システムへの理解や、ローマ防衛の意識に変化が生じるのはやむをえません。
帝国の指導者や、その下で帝国を守る軍人たちは、ローマというシステムの強みをいかに発揮するかではなく、いかに領土や国の繁栄を守るかという受け身の意識で考え、行動するようになっていきました。
ローマは王政や共和政の時代から、拡張と革新で発展してきた国でしたが、受け身に回ることで、かつての活力を失ったのです。
トップダウン体制の欠点
ローマ弱体化の理由としてもうひとつ考えられるのは、皇帝の個人的な資質の問題、つまり人材の質が低下して、ローマの皇帝にふさわしい人物が出てこなくなったということです。
1~2世紀のパクス・ロマーナの時代が終わり、3世紀になると、皇帝の座をめぐる対立・抗争が続き、戦地で皇帝が暗殺されて、次の皇帝が軍団兵たちに擁立されるといった混乱が起きています。
帝政のようなトップダウン体制は、カリスマ性のある天才的・超人的なトップがいれば、適切な政策が迅速に実行されるので、広大な帝国の統治に向いているのですが、そうでもない皇帝だと、軍事も政治もとたんに不安定化するという欠点があります。
元々共和政時代のローマは、トップダウンではなく、集団指導体制によって成長した国家でした。
意識の高い貴族・エリート層から優れた素質と意欲を持つ人材が選ばれ、育成されることで、元老院に何百人もの人材のプールが維持され、必要に応じて次々と優れた指導者を生み出すことができたのです。
グローバル帝国へと成長したローマでは、このエリート層が既得権益集団になって、うまく機能しなくなったので、トップダウン型への移行が行われたのですが、この体制はカエサルのような天才や、彼の改革を引き継いだアウグストゥスなど、帝国全体を見渡す視野と強い使命感を持つ、優秀な人物がトップを務めることで初めて機能するものでした。
グローバル帝国としての成長・拡大や、統治システムの創造を成し遂げた時代が終わり、固定した国境を守るだけの時代に育った世代から、そうした卓越したトップが出てこなくなるのは、歴史の必然だったと言えるかもしれません。
システム再構築
もちろんローマ帝国も、弱体化に手をこまねいていたわけではなく、3世紀以降、皇帝たちは様々な改革を試みました。その中で、最も大胆で画期的な改革を行なったのがディオクレティアヌスです。
政治体制では、帝国の統治を東西に分割し、さらに東西それぞれに正帝・副帝を置いて、広大な領土の統治を効率化しました。
軍事では、より機動的な防衛ができるように、軍を30万人から60万人に増やし、国境線に分散していた軍団の多くを4人の皇帝直属軍としてまとめました。
行政では、国の財政を立て直すために増税を断行し、パクス・ロマーナの時代には廃止されていた徴税請負制度を復活させ、収入を確保しています。
社会制度では、農民が蛮族の侵入を逃れて都市に流入するなど、流動化・不安定化していた社会を安定させるため、職業の世襲制を導入しています。
これらの施策によって、当面の課題は解決し、帝国の体制自体は強固になりました。
裏目に出た改革
しかし、やがて新たな問題が顕在化してきました。
軍を皇帝に集中させたことで、長い国境線の守りが薄くなり、蛮族の侵入がさらに容易になったのです。
皇帝直属の軍は増強されているので、現場に駆けつければ蛮族を撃退できるのですが、国境線は長大ですから侵入できる場所はたくさんあり、蛮族はそこを突いて侵入してきました。
逃げ場を失った農民は自前の防衛力を持つ大農園の農奴に転落するか、逃亡して盗賊になり、蛮族と同様に略奪をはたらくようになりました。
こうして地方のモラルは低下し、力がものを言う社会へと変化し、さらに蛮族が侵入しやすくなっていきます。防衛が後手に回っているうちに、辺境地域は荒廃していきました。
また、徴税を請負業者に任せるようになったことで、税は彼らの儲けを上乗せして徴収されるようになり、不当な増税に不満を持つ市民の逃亡が増えました。その分税収は減り、逃亡民が盗賊化するなどで、地域の荒廃はさらに進んだと言います。
キリスト教を公認した皇帝
ディオクレティアヌスの跡を継いだ東西の正副皇帝4人はバトルロイヤル的な闘争を始め、その中からコンスタンティヌスが勝ち残りました。
彼はキリスト教を公認し、帝国の中心を東に移して、今のトルコ、イスタンブールに新しい首都コンスタンティノープルを建設した皇帝として有名です。
キリスト教は元々、アウグストゥスの時代にユダヤ王国で、ユダヤ教の改革運動から生まれた小さな集団の信仰でした。
同じ一神教でも、ユダヤ教が神との契約である戒律を守ることで、現世での幸福や民族の存続・繁栄が約束されると考える現世利益の宗教なのに対して、キリスト教は民族や階級に関係なく人を愛し、助け合い、清く正しく生きることで、死後に永遠の命を得ることができると考えます。
キリスト教が帝国内に急速に普及したのは、国家や民族に囚われないユニバーサルな価値観・倫理観が、グローバル化しながら経済発展していく社会に戸惑う、多くの人たちの心をとらえたからです。
ローマの衰退はキリスト教によって加速した?
ローマ人は現世利益的な多神教を信じ、力や富、欲望の実現を肯定する民族ですから、キリスト教とはある意味真逆です。
しかし、ローマ人にも国のグローバル化や空前の繁栄に違和感を覚える人たちがいました。
キリスト教は繁栄から取り残された貧困層だけでなく、貴族や富裕層などローマのエリート層にも広がっていきました。
自分たちのローマ的価値観が、キリスト教の倫理観によって覆され、それを受け入れたローマ人が、幅広い層に存在したということです。
そこから、キリスト教の普及がローマ帝国衰退の一因であるとする考え方もあります。
現にディオクレティアヌスは、キリスト教を敵視して、大規模な弾圧を行なっていますし、彼以前にも様々な皇帝が弾圧しています。
しかし、彼らの弾圧にもかかわらず、キリスト教は着実に信徒を増やしていきました。
コンスタンティヌスのキリスト教公認は、この流れを弾圧で止めるのではなく、キリスト教を利用してローマ帝国の衰退を食い止める試みでした。
今回はここまでとして、コンスタンティヌスのキリスト教公認がどのような改革だったのか、そこからどのような結果が生まれたのか、そして彼以後の帝国がどのように衰退し、滅んでいったのかについては次回お話しします。

