開放的カルチャーの源流は建国の時代にあったかもしれない
平定した国々を滅ぼしたり、武力で支配するのではなく、連合に迎え入れ、社会制度やインフラを共有しながら、共存共栄的な発展をめざしたローマ人。古代ローマシリーズ第3回は、彼らが独自の統治スタイルをどのように生み出したのかについて考えます。
ローマの革新的統治システムはどうやって生まれたのか?
前回はイタリア中部の小さな都市国家にすぎなかったローマが、周辺地域の勢力を次々平定し、イタリア半島をほぼ統一するまでの過程をたどりました。
そこから見えてきたのは、ローマ人がただ武力で他国を征服し、支配するのではなく、平定された国・地域の人々にローマの法や制度、社会インフラを共有し、共存しながら発展していったことでした。
これは古代国家としてはかなり革新的な国家運営方法です。
この方式は勝者であるローマ人だけでなく、本来敗者であるはずの同盟国にもメリットがあったため、同盟国はローマ連合を受け入れ、同化していきました。
そこにローマが連合体として発展し、やがて大帝国へと成長することができた秘密があります。
しかし、そこからひとつの疑問が湧いてきます。ローマ人はこの革新的な独自の統治スタイルをどうやって生み出したのでしょうか?
ギリシャから学んだこと、学ばなかったこと
ローマが王政を廃止して共和制に移行したのは紀元前509年。その約半世紀後の紀元前453年に、ローマは全盛期のギリシャに使節を送っています。
この頃ローマでは国政を主導する貴族層に対して、市民層が自分たちに納得できる法制度の明文化を求めていました。共和制になってから、市民層は前より自分たちの政治的・社会的権利に敏感になっていたのかもしれません。
ローマ市民は国の発展の根幹を担う軍人・兵士であり、王政の時代から王は市民集会が選んでいたといいます。共和制になって終身制の王が1年任期の執政官2人に変わっても、国政のリーダーであり、軍の総司令官でもある執政官を選ぶのは彼らでした。
ローマの使節団は当時の地中海で最も先進的だったギリシャに長期間滞在し、特にアテネの法制度や政治・社会制度をじっくり学んだようです。
ギリシャの都市国家の中でもアテネは海外での鉱山経営や貿易、他国家からの移民受け入れによる人口拡大などによって社会・経済が発展していました。また、いち早く寡頭制から民主制へ移行するなど、ギリシャ諸国の中でも最先端を走っていました。
さらに、アテネは多くのギリシャ都市国家のリーダーとして、デロス同盟を主導していました。
しかし、結局ローマはアテネの民主主義や、デロス式の同盟スタイルを導入することはしませんでした。
ギリシャを衰退させた民主主義と平等
ローマの使節がギリシャを訪れた5世紀半ばは、アテネをリーダーとするギリシャの全盛期でしたが、民主制のアテネでは政治家や各分野の有力者たちが、互いに対立抗争し、絶えず政敵を訴えたり、国外追放したりしていました。
アテネ主導のデロス同盟は同盟国が建前上平等でしたが、平等であることで同盟国の不満がたまると紛争に発展しやすいという欠点がありました。
また、このときからギリシャには、アテネのように経済・社会の成長拡大を指向するデロス同盟と、保守的なスパルタが主導するペロポネソス同盟の間に断続的な紛争が起きていました。
ローマの使節は全盛期ギリシャの対立抗争や内紛を見て、ギリシャの民主主義や、対等・平等な同盟に不安定さ、危うさを感じとったのかもしれません。
その後アテネの全盛期を主導した政治家ペリクレスが亡くなり、ペロポネソス戦争が本格化すると、アテネはスパルタに敗北。スパルタを支持する勢力の独裁政権が樹立されたり、民主派との闘争が起きたりしました。
ローマ使節がギリシャを訪れて色々なことを学んでからわずか数十年後のことです。
戦争や内乱で疲弊したギリシャは、アテネもスパルタも含めて衰退していき、やがて北方の新興勢力マケドニアに平定されてしまいます。
この間、ローマ人はイタリア半島を統一して、強国へと成長していきましたが、この間もギリシャのことは
ウォッチしていたでしょう。
彼らは混迷・衰退するギリシャを反面教師として、統治について学びながら、自分たちが取るべき道を確立していったのかもしれません。
寛大な統治の自信はどこから?
国の法制度など多くをギリシャから学んだローマ人が、国の成長・発展戦略ではギリシャ方式ではなく、武力を軸にローマ連合を拡大していったのは、おそらく主導する国の武力による保障がなければ、同盟の安定的な運営はあり得ないと考えたからです。
ローマの目標は、平定した同盟国・属州などを含めた、連合全体の発展・繁栄でしたが、それは優れた法や制度だけで実現・維持できるものではなく、圧倒的な力に裏づけられた統治が必要不可欠だと、ローマ人は確信していたのでしょう。
しかし、ただギリシャの民主制や平等主義を反面教師としたなら、武力で征服して支配する、従来型古代国家の支配形態を選んでもよさそうなものです。
ところがローマが選んだのは、武力で平定しながら、降伏した国や地域の人々をローマの仲間として迎え入れるという、当時としては新しい、寛大な統治形態でした。
この寛大さ、開放的なシステムはどこから来たのでしょうか?
相手は昨日まで敵だったわけですから、仲間として迎え入れるにはリスクが伴います。ローマの寛容さにつけ込んで反乱を企てたり、自分たちの権利を主張して対立を生み出したりして、国家や社会の運営を危うくするかもしれません。
イタリア半島や地中海沿岸など広大な地域を平定した後なら、圧倒的な武力による制圧と、経済力・法制度による統治を、自信満々で推進することができたでしょうし、平定される側も納得して連合に加わることができたかもしれませんが、最初は実績がないわけですからそうはいきません。
そう考えると、ローマが共和制初期の段階から、革新的・開放的なローマ連合スタイルでイタリア半島の平定を進めていったのは不思議な感じがします。
王政の時代からあった開放性
そこで改めてローマの歴史を建国までさかのぼって、王政時代の出来事をじっくり読み直してみたところ、
ローマ人の興味深い特異性が見えてきました。
ローマの歴史は初代の王ロムルスが双子の弟と狼に育てられたとか、トロイから逃げてきた王族の子供だったといった神話・伝説から始まっていますが、実際にはラテン地域の部族社会から弾き出されて、狭い7つの丘と湿地しかないローマに暮らすようになった、はぐれ者の集団だったようです。
彼らはローマに定住すると、近くのサビーニー族から女たちを強引に奪って妻にしたことがきっかけで戦争を始めました。
何度かの戦いに勝利したローマは、サビーニー族を支配するのではなく、対等の仲間としてローマに迎え入れて、同化するという道を選びます。
ローマ人とサビーニー人との対等性は、2代目と4代目の王をサビーニー族から選んでいるところにも表れています。
3代目の王の時代、ローマはラテン人発祥の地とされるアルバを攻撃し、征服します。アルバの王は殺され、住民はローマへ強制移住させられます。
これは古代国家らしい戦後処理です。ローマはラテン人発祥の地を手に入れたことで、ラテン地域のリーダーになりました。
しかし、このときもローマはアルバの市民を奴隷にしたり資産を略奪するのではなく、ローマ市民として迎え入れています。アルバの有力者たちはローマの貴族になり、元老院のメンバーになりました。後にカエサルを生むユリウス家なども、このときアルバからローマに移った貴族です。
先進国エトルリアから王や技術者・商工業者を迎え入れる
王政時代の歴史として続いて語られるのは、ラテン地域の北、今のトスカーナ地方あたりにあった大国エトルリアからやってきた人物を王に選んだというエピソードです。
この人物はとても優秀でしたが、ギリシャのコリントからエトルリアに亡命した父と、エトルリアの豪族の娘の間に生まれた余所者だったため、エトルリアでは能力を発揮できず、開放的なローマに移住してきたといいます。
彼は次第に頭角を現わし、ローマの第5代王に選ばれると、元老院を100人から200人に増やしたり、ローマの湿地帯に地下水道を建設して水を川に流し、居住・利用可能な土地を作り出すなど、様々な改革を行いました。
新しい土地には人々が集まる広場や大競技場が造られ、ローマ市民の一体感を高めたといいます。さらに庶民の住宅地や、商店、職人の工房が集まる地域もできました。
土地開発工事のために、エトルリアから技術者が呼ばれ、ローマに先進的な技術が導入されることにつながりました。エトルリアからは商工業者もやってきて、ローマ経済の活性化を促しました。
ローマの開放的DNA
こうした王政時代のエピソードを読むと、はたしてこれが歴史的事実なのか、後のローマ的システムの成功を踏まえて脚色された、神話・伝説的フィクションなのかわからないという気もします。
しかし、たとえ後付け的な側面があるにしても、ローマ人の深いところにある、DNAやカルチャーがそこから読み取れるかもしれません。
これらの物語から窺えるのは、初期のローマ人がラテン民族の社会からはみ出した集団で、古い部族的なしきたりに満足できなかったこと、新しいものを試す知恵と勇気があり、戦闘には強いけれども、人員が少なく、国の基盤が弱いので、戦いに勝つたびに降伏した相手を迎え入れて、国を拡大していったことなどです。
当時先進的で発展していたエトルリアやギリシャの都市国家が、経済活動は自由で活発でも、政治的には意外に閉鎖的で、自国の利益のための自己主張が強かったことをあわせて考えると、当時まだ弱小勢力だったローマ人が開放政策で発展していった理由がわかるような気がします。
彼らは何も持っていなかったからこそ、自分たちの土地・国を解放して、仲間を増やしていくことにメリットを見出すことができたのでしょう。
古代に革命をもたらしたローマの外部連携ネットワーク
経済合理性の観点から見ると、テクノロジーからビジネスの担い手、リーダーまで、色々なものを必要としていた初期のローマ人は、おそらく外部連携によってそれらを獲得せざるをえなかったと言えるかもしれません。
そして様々な経験を重ねるうちに、外部と連携するメリットを見い出していったのでしょう。
外部連携のメリットに気づいたローマ人は、古代らしい軍事的な平定によって規模を拡大していったわけですが、ローマの独自性は平定した国々を同盟国として迎え、連合としてネットワーク化していったことでした。
第一次産業革命期の鉄道網や第二次産業革命期のハイウェイ網、IT革命をもたらしたコンピュータネットワークなど、近現代のネットワークは経済・社会・文化に飛躍的な成長や変化をもたらしました。
特にネットワーク経済の法則に基づき、ネットワークベンチャーによる下剋上や破壊的な構造変化が起きたのが、第一次IT革命でした。古代ローマは2000年以上前に、このネットワーク革命を、アナログで成し遂げたのだと見ることができるかもしれません。

